包括支援センターからの紹介で、余命一か月のターミナルの方を受け持つことになった。認定調査は今からなので、調査員への情報提供を行って、できるだけ介護度が重くなるようにと願った。あとは、訪問診療の先生との連携、訪問看護、訪問介護・・・などなど、暫定でどんなサービスを組み合わせれば、本人、家族が心配なく、在宅で看取れるかを頭の中で計画を立てていた。
ところが、やっぱり在宅では無理と判断したであろう主治医が入院をすすめ、明日入院となった。ふう~。すべてはキャンセルとなった。同居の娘様に負担がかかることを本人も望まなかったようだ。
自宅で家族が死を迎えることは、昔なら普通にやっていたことであるが、現在死を迎える場所は病院がほとんどである。在宅で看取るには、家族にも相当の覚悟が必要である。以前そんな人がいたが、家族が
「いつ息がとまるか?と思ったら、とても怖くて、怖くて・・・・。私が夜眠れなくなりました。やっぱり家で死なせるのは、無理です。」といった家族がいた。そうなんだろうなあ。
じゃあ、なぜ、昔の人たちは、こともなげに自宅死を受け入れていたのだろうか?もしかしたら、死ぬことは人間である以上、自然なこととして受け入れていたのかなあ?
「おっ!ばあちゃんの息が止まったばい。村の衆に知らせてくれ。葬式の準備や!」な~んてこと、言っていたかもしれないなあ。
宇野 恵子
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